僕は、仕草だったり表情だったり、はたまた、言葉だったり会話のちょっとした間から相手の感情や要望を察するのが、他の子に比べて上手な子供だった。
そして、相手が望むように答えたりや行動したりすることも、上手にこなせる子だったんだ。
だから、かなり得をしていたと思う。他人の目には、さぞかし素直で幸せそうな、でも小賢しく世渡りのうまい子供に見えただろう。
本当は、自分の気持ちを押し殺さなければならなかったり、ワガママを通しきることができず、隠れて歯噛みをするほどに悔しがることが多かったんだ。
育てられた環境がそうさせたのか、友達とか周囲の環境がそうさせたのかはわからない。
うまれつきの特性なのかもしれない。
もしかしたら子供の頃から本を読むのが大好きだったせいかもしれない。
そういえば、本を読むと簡単に物語の主人公に感情移入することができたし、映像で景色や登場人物の表情が見えたり、頭の中で声が聞こえたりしてわりと感受性が強いほうだったようだ。この年になっても妄想力が強いのは、当時の想像力が変貌した結果なのかな。
いずれにしろ、僕が一番キライなタイプの人間であることは間違いない。あんまり自分語りをしすぎると、こうやってナルシズムがちょろりと顔を出してくるあたりもキライなんだ。
いずれにしろこうやって匿名で誰宛でもない文章をだらだら書くのは、気にするべき相手がいないので、ことのほか気分が良いのだ。
さて、ようやく本題だ。
ここ数年、テレビだとかネットだとかで、あまり良くない意味で「ダブスタ」という言葉が使われている。
「あの人はダブスタだから」と言われたら、たぶんそれは褒め言葉ではない。
たしかに相手によって対応が変わる様をみたり、他人に厳しく自分に甘かったりする姿を見るのはあまり気分の良いものではない。
でも、人間とはそういう特性の生き物なのではないかと思うのだ。
社会性を持つということは、相手や所属しているコミュニティなどとの関係性を考慮した上で、自身の決断をし行動をしていくことだと思っている。
その結果として、自分の信念を曲げて行動することも、決断に影響が出ることも、社会性を持った人間という生き物の特性なのではないかと思うのだ。
嘘も方便とは言うけれど、相手との関係性を円滑にするために、自分の本意を隠すことが往々にしてあるのが人間だと思う。いや、それこそまさに人間臭い人間だ。
テレビのコメンテーターは、おそらく自分の意志に反して視聴者にウケそうなことや、スポンサーから喜ばれそうなことを言うこともあるだろう。
仕事でお客さんに会えば、午前中に別のお客さんと話していた内容とは真逆のことを言うことだってある。
ダブスタどころではなく、マルチスタンダードだ。
まぁ確かに、自己利得のみを考えてのマルチスタンダードは、友達を無くすし仕事も失うことにはなるのでまったく賛成はしない。
でも、全員が自分の信念ばかりを叫んでいたら、おそらく社会は成立しないし、組織も成立しない。
つまり、マルチスタンダードを適切に使いこなす能力は、社会の中で上手に生き延びるための大切なスキルなのだと思う。
たぶん、ダブスタだ!と非難の意味で使っている人も、どこかでマルチスタンダードなところがあるはずなんだ。
そうなんだ。自分のことを棚にあげて語っている時点で、ダブスタだよね。
「ダブスタ」という言葉は悪いイメージが染み付いてしまったから、せめて「マルチスタンダード」という言葉は良い意味で使えるような世の中だったら良いなと思うのです。
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